学生の頃は、自転車で旅をして「旅人」になるのが夢でした。
種田山頭火、山下清、植村直己などにあこがれを抱いていましたね。


大学を卒業してから、ブリヂストンサイクルに入社し、モノ作りとは何か、開発とは何かを徹底的に叩き込まれました。通常は、上司から与えられた開発テーマで仕事をするのですが、自分がやりたいものが沢山あり過ぎてしょっちゅう衝突していました。


バブル崩壊後、開発費は削られて、それでも要らなくなったフレームやら部品を集めては試作を繰り返し、一匹狼的な仕事をしてきましたが、「他社のコピーでいいんだよ。」と言われ、「俺は開発屋だからコピーはやらない。」と突っぱねて、翌日退職届を出しました。置き土産にショートクランクの基本特許を出願しておきました。


一時半導体業界で食いつなぐも、3人乗り子供乗せ自転車を開発したくて丸石自転車に入社。当時は3人乗りは道交法違反だったので、後ろ乗せ専用車として開発。しかし、丸石の経営がおかしくなり退職。

山形に戻って就職するも、中国に半導体工場を立ち上げに出向。言葉が通じない中国人スタッフとは信頼関係を築いたが、日本人スタッフとはうまくいかず。ピストを持ち込み休日は中国の田舎の古い街並みを求めて旅をしました。
DSC03214

過労のため、中国で倒れ日本に強制送還。会社命令を無視し、一時上海に潜伏するも発見され日本に帰国。帰国後は全く働く意欲がなく、一時期ニート状態に。家族を養うどころではありませんでした。

一時は農業にも携わったが、自転車の開発は継続。元サンツアー会長の故河合淳三氏とよく技術的交流をしていました。
DSC09591

河合氏とショートクランクの共同開発をスタートさせるも、翌年河合氏死去。

「自転車業界をなんとかせにゃあかん。」とおっしゃっていた河合氏の意思を受け継ぎ、ショートクランク車を売り込みにかかるも、全て門前払い。

昨年4月、偶然が偶然を呼び、ある会社と共同開発スタート。今年量産車を発売予定。

というような具合に、いつも自転車のことしか頭にありませんでした。妻や子供には迷惑掛けっぱなしでした。「妻苦輪愚狂会」という名前の由来は何となく想像できますよね。

こんな人生大変ですから皆さんはマネしないでください。